インデペンデンスデー インバングラデシュ ダッカ2
12月 17日 インデペンデンスデー イン バングラ ダッカ2
聞くところによると、バングラデシュはインドから1947年に東パキスタンとして独立し
第三次印パ戦争がインドの勝利で終わった結果、バングラデシュ独立戦争を経て
1971年に独立が確定した。
その際パキスタン軍は敗北必定と見ると、バングラデシュ独立後の発展を阻害し
文化を破壊する為に、多くのベンガル人知識層の虚殺を開始した。
自宅や職場から連行された人々はダッカの外れにあるレンガ工場へと連行され
そのまま殺されたと言う
現在そのレンガ工場跡地は殺害された知識人を記念する為の大きな碑が建てられている
のみの廃墟と成っている。
こちらに来て2ヶ月くらいした頃、私もこの知識人犠牲者の碑の有るショヒド ブディジビ
と呼ばれるところを訪れた事が有るが、現在はこの地にかつてのレンガ工場は無いが、替わりに当時のバングラデシュの悲しみを象徴しているようかのように
レンガの壁が一面に整然と積み上げら、中央には満々とした水が貯められていた。
現在はこの記念碑の周りに公園が出来ており、なんの屈託も無い子供達が
嬉々とした表情で、バングラデシュ人が愛してやまないクリケット(野球の原型の様なスポーツ)遊びに高じており、まさに平和そのものの空間に成っているが
そんな子供達を取り囲む周囲の出入り口付近には、制服姿のいかつい
警官達が数人づつ配備されているところが、この地が只の広場では無いことを
表していた。
原爆の投下による最後通牒のような形でアメリカの影響下で統治された後
緩やかに獲得した日本の自立への道のりと、イギリスやインドの干渉から逃れ
そして西パキスタンとの激しい戦争を経て自分の力で勝ち取ったここバングラデシュ
の独立とは、おのずと政府の思い入れも国民の感情も違ってくるのはしかたの無い
事だし、大昔の神武天皇の即位日を建国記念の日とする日本の形式化した記念日
しか経験の無い私達にはまったく考えられない今日のこの熱狂で有った。
しかし正直言ってこの様なバングラデシュでの独立に掛ける喜びや熱気には、驚きと同時にある種の羨望を感じてしまう。
そして日本を離れて異国の地で生活して、この様なストレートな独立に向けた
喜びの感情表現を目の当たりにしてしまうと、やはり日本の整然とはしているが
感情の露出も感激も少ない記念日の有り方に対し疑問を感じてしまうのは私だけだろうか?
かつての私たちの先輩達が無我夢中で掴み取った経済的繁栄に気を許し、自らの開拓精神をなくした日本人
かつて自らの力の結集で独立を勝ち取ったものの、いまだに大多数の人達が
貧困に喘ぐここバングラデシュ
なんとか、この両者の組み合わせと協力で共に内在している自国の停滞現象を
打開できないものかと、考えさせられる今日一日だった。
社長と共にアパートを3時くらいに出発しリキシャ、CNGと乗り継いで新規事業の
関係者との協議に向かった訳だが、要件を終え8時くらいに帰宅する頃には
さすがに日中の喧騒が嘘のように落ち着きを取り戻していた。
翌朝の朝、またいつものメインロードから一日の仕事の開始が待っていたが、街の様相
はすでにオータムインダッカへと変身しており、路行く人々の冬装束がこの地での
秋の訪れを教えてくれる。
日中の気温は20℃ほどまでしか上がらない。日毎に寒さが身にしみてくる
秋の日の一日はやはり私の心にかなりの感傷を運んできているようだ。
ちなみに
バングラデシュと言う意味は『ベンガル人の国』と言う意味で
広大なデルタ地帯を形成する大海こそが、そのバングラデシュ人を生んだ
ベンガル湾なので有る。
国旗の赤は昇り行く太陽、緑は大地の恵みを表していると言う
独立記念日の今日、人々がこの国旗に対し、誇りと自立獲得の喜びを
感じていた事は言うまでもない。
日本の日の丸に対する感じ方はたどってきた歴史の違いによって少し違うが
同じ日の丸の国同士、共に将来に向けて発展したいものである。
㈱ わんピース プロダクトマネージャー 小山
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